夏草のあとに




家とは名ばかりの、どうにか屋根と壁のある小屋から這い出して尾根を伝い、

樹齢を感じさせる杉たちの間に少し分け入ると簡単に鬱蒼とした森へでる。

そんな山深いところが自分では気に入っていた。

毎年夏になるとここへ来る。

もう何年になるか。



―それでも、今年は少し特別だった。



このあたりには気の荒い魔界植物もいないので、

平素は顧客の屋敷でも離さない商売道具兼護身具を

ここにくると身につける気にもならない。

かわりに城下町で調達した食料と画材を抱えて、どっしりとした山の風景に目を細める。

食うためとはいえ、自分の本意でないものは描くことすら

自分を磨耗させるだけの苦行である。

「ふう・・・」

ここに来ると、あれほど枯渇していた創作への意欲が

一気に満ちてくるのがいつも不思議だった。

そしてそれに加え。



夏の花が盛りである。

立葵や木槿が群生する、

光のカーテンがゆらゆらと幻想的に気だるい風景の中へ足を踏み入れる。

あちら、こちらと視線をうつすうちに・・・やはり今日も居た。



白い花々の中に溶け込むように、いやそれでいて不思議とそこだけトリミングしたように

くっきりとその珍客はいつも花の中にうつぶせで倒れている。

まるで花々の眷族のように。



「銀狐ぎんぎつね さん」

名乗る気がまったくなさそうな彼に、私ははじめて口にした呼称で今日も声をかけた。

もぞもぞ、と立葵の中からあらわれたのはふさふさとした尻尾とそれによく似た色の髪。



「今日は上手くいったかい?」

「うーんあんまり」

小さな顔をこころもちあげて、視線だけをこっちによこし軽く顔をしかめてみせる。

「タチアオイはなんとかなったけどムクゲはだめ」

「そうかぁ」

「おまけに昼過ぎると寝ちゃうからな、こいつら」

木槿のうすい花びらを優しげにつまんでかるくひっぱる。

そこには私へのしぐさとはずいぶん違う、愛おしさが見える。

うつぶせのまま、頬杖をついて葉脈をながめる斜交いの姿に、絵描きとしての

私の本能がはげしく賛辞をおくるのを自分では止められなかった。

はじめてこの風景の中で出会ったとき。

その時から変わらぬ感情だった。



「絵描きさん、最初オレが死んでると思ったんでしょ」

「そりゃあ・・・こんなところで倒れてたらねぇ・・・実際お腹もすいてたんだろう?」

「・・・今日は何か持ってる?」

「ああ今日は握り飯と・・・」

抱えていた包みをひらくと、優美な狐はぞんざいな動作でこちらに向き直り、

耳と鼻をぴくぴくさせる。

いつもこの調子で彼に食物を貢ぐことになってしまうが

まぁモデル代だと思えば安いものだ。

実際、彼はひどく完成された容姿とは裏腹にその行動は幼かった。

いや、幼いというより野生動物のそれといったほうが近いかもしれない。

どこででも寝転がって泥だらけになり、こちらからの接触を嫌い、

かと思うと屈託のない笑顔をしてどんでもないことを滔々と話したりする。



ここで何をしているのか、と尋ねた時の彼の説明にはとても面食らった。

「話してる」

「誰と?」

「杉とムクゲとタチアオイ」

「え?」

「杉は年寄りだからすぐ話せた。ちょっと説教くさいけど。そういうとこ、黒鵺にそっくりだな・・・」

「・・・えーーーっと。。。」

「あとのコはダメだな。もっと時間かけないと。名前だけは教えてくれたけど」

彼は植物とは会話ができるし、ある程度わかりあえる、とまじめくさって教えてくれた。

そんな調子でもう一週間ちかく、ここにいる。

魔界には様々な能力者がいるから、

植物を統べる妖怪がいるようなことも噂で聞いたことがある。

しかしこの未成熟な銀狐がそれをできるとは到底思えず、しかし真剣なその姿を

毎日見るのが楽しみになっていた。



「うーんどうしてなんだろな」

私の手からひったくった干し魚に頭からかじりつきながら思索深げにつぶやく銀髪に

触れてみたい欲求を抑えながら私は画材を取り出しはじめる。

「やっぱり妖怪に慣れてないからだよな。このへん、誰も来そうにないもんな」

「しかし、妖怪に会った事がない動物はその恐ろしさを知らないが故になつっこいということもあるよ」

「てことは、何かコワイヒトに会った事があるから、ここのコたちは用心して大人しくしてるってこと?」

「そういう可能性もある」

「そうか・・・絵描きさん、アタマいいな。黒鵺とは大違いだ」

「前から気になってたんだけどその“くろぬえ”っていうのは・・・」

魚の最後のひとかけらを口に放り込むと、狐は敏捷に再び花の上に倒れこんだ。

宙に浮いた言葉を、微笑とともに飲み込んで、私はゆっくりと絵筆を水にひたす。

ぷっくりとなった筆に淡く緋色をにじませると、そのみずみずしさはまるで

誰かのくちびるのようだった。

『対象に全ての意識を注ぎ込め』

『自分の全ての細胞で対象をからめとれ』

遠く昔に後にしてきた師の言葉が頭の中で反芻していく。

立葵のすんなり伸びた若々しい茎を描く。

銀狐の小づくりで無駄のないむき出しの肩から肱のラインを描く。

あたりにたちこめる柔らかい陽射しを明るい筆づかいで埋めていく。

自分の眼差しが・・・ひどく冴え、それでいてまろやかになっていることに気づく。













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